カテゴリ:日々の暮らしで考えた( 45 )

戦没画学生「祈りの絵」展に行ってきた

胸に迫る展覧会だった。

絵の道を志しながら、学徒動員で戦争に赴き、そのまま帰らなかった方々の遺作を集めた展覧会である。
いや、果たして展覧会なのか?
会場にはところ狭しと、大小さまざまな絵が飾られていた。サイズも、画風も、モチーフも実に様々、日本画も洋画も鉛筆画も区別なく展示されていた。
そしてそれぞれの絵には、作者の名前と略歴、残されたご家族が語る作者の思い出が付記され、一部にはそれ以外の遺品(写真や手紙など)も飾られていた。

その展示は、飾られていないもの、そこにないものを見るための手がかりであった。
絵を観つつ、略歴を読み、思い出を読む。その時、そこに立ち現れるのは、絵筆を振るう作者そのものであった。
確かにそこに存在したと感じられる、その方々の姿が、深く胸に迫ったのだった。

浮かび上がる作者たちは皆、豊かな教養と深い愛情を感じさせる方ばかりであった。
戦前戦中の時代、当時を知らない我々は、ついその時代に文化などなかったかのように思ってしまう。しかし、そんな暗い時代であっても、そこに生きた方々はそれぞれに高い文化を胸に宿していた。
我々は戦地に立つ兵隊一人一人にそれぞれの豊かな人生がある事をつい見落としてしまう。しかし彼らは高い教養と豊かで深い愛情を持った方々であった。
会場に飾られた豊かな絵画の数々が、その事を雄弁に物語っていた。

気が付けば会場のそこかしこに、目尻を押さえ涙をこらえる姿があった。
誰もが、そこにある絵を見ながら、そこにいない人々に想いを馳せているのだった。

そこにないものを、人を感じていた我々は、果たして展覧会を見たのだろうか?
確かな事は香り高い文化に触れた、豊かな時間を過ごしたという事だけだ。そしてそれで充分だ。
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by w-edge-t | 2011-06-12 21:44 | 日々の暮らしで考えた

携帯を落として考えた

携帯電話を落とした。

正確にはPHSだがそこはどうでもいい。ともかくまいった。気付いたのが夕飯前、ちょっと連絡しなきゃならないことがあって、さて電話は……、というところで凍り付いた。
身の回り、心当たりの場所を見てみてもどこにもない。電話をかけてみても直通で留守番電話サービスに回されてしまう。
観念して一体いつ、どこで落としたか、それを考える事にした。
その日外出したのは昼飯だけ。ということは食堂か、或いは移動の電車内か。
すぐに連絡とってみた。食堂に電話し、最寄り駅まで走って駅員に落とし物を検索してもらう。が、出てこない。
「特徴は?」とか聞かれても、いいトシしたオッサンである俺は別段ジャラジャラとストラップつける趣味もなく、「い、色は銀色です」とかほとんど特徴にもならない事を告げる事しかできない。
その時点で敗北感でいっぱい。もうこりゃ出てこないなと、あきらめの境地で重い足を引きずって帰る事になった。

携帯がなくなるってのは実に心細い。そこにしか入ってない知り合いの連絡先も多い。出てこないと二度と連絡取れないのか?と不安になる。
考えるとすごい依存度である。

生活に必要不可欠なデータをそこに入れて持ち歩いている訳で、言ってみりゃ脳みその外部化。
いつの間にやら世の中は、ウィリアム・ギブソンもびっくりのSFになっちゃってるのである。
そりゃSFが衰退する訳だ。現実が追いついちゃってんだもんなー、と、昔ながらのSFファンとしてはため息つくばかりである。
しかしSFと現実には無論違いもあって、最大の違いはカッコいいかどうかだ。
サイバーパンクなんつって、頸動脈に端子があってメモリー抜き差ししたりするイメージは抜群にカッコ良かったんだが、今、道端で携帯片手に電池を抜き差ししてる姿は映りの悪いテレビにチョップするオカーサンと変わらない。一つもカッコ良くはない。

思い出してみるに、携帯も普及し始めの頃はカッコ良かった。持ってる事自体がステータスだった。そういや今だとスマートフォンはまだカッコいいな。電車の中で画面いじってる人がいるとついオッと目を留めてしまう魔力がある。

魔力が宿らないモノは普及しないと思う。
そういや3Dテレビが売れてないと聞く。バーチャルリアリティなんて言葉がはやった頃は、ゴーグルのごとき装置を頭にかぶって仮想空間に埋没するというイメージがこれまたカッコ良かったんだけれど、実際にゴーグルのごとき眼鏡かけて家族でテレビみてる図なんてやっぱりカッコ悪いとしか思えないわな。
最初っからカッコ悪いんじゃそりゃ売れんわなーと思うんである。

うーん脱線しすぎてまとまらなくなったのでここまで。
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by w-edge-t | 2011-06-06 14:32 | 日々の暮らしで考えた

不信任案だそうで

なんか国会が色々と騒がしい。
内閣不信任案が提出されて解散総選挙もあるという情勢のようだ。
これに対してマスコミでは今そんな事をしてる状況かという批判が飛び交っているようだが、個人的にはそれは的外れだと思う。
だって政治っちゃ元来そういうものでしょ?と思うんである。
「この国難の状況では一致団結して事に当たれ、政局にするな、もっと被災者をおもんばかって真面目にやれ」という意見のようだが、政治家が真面目に自分たちの仕事をやったら政局になるに決まってると思うんである。
とりわけ野党なんてそうだろう。真面目に、自分たちの立場に忠実にやるってことは与党の仕事をきちんと批判するってことな訳で、不信任案提出はむしろ真面目に仕事した結果だと思うのである。
なんでもいいから仲良くやれ、一致団結してやれという主張の人はだから、「野党は真面目に仕事するな」と言うべきだったんではないか?

マスコミがその辺の理屈がわかってないはずがない。わかってないなら報道の資格がないし、わかってあえてやってるんなら悪質である。どっちにしろ間違いないのはマスコミの言う事は信じない方がいいと言う結論だけである。

個人的には菅首相には一刻も早く退いて欲しいとは思う。
これまたテレビなんかでよく聞く言説として「菅首相がいやだと言うなら、誰だったらこの難局を間違いなく乗り切れるというのか?」てな言い回しがある。そんなものわかる訳がない。
質問がおかしいのだ。そうじゃない。聞くべきは「誰が首相だったら、この難局を乗り切れなかった時にあきらめがつくか?」だろう。
俺は菅さんと心中する気にはなれない。間違いなくなれない。あの、避難所視察の際の、腰に手を当てたまま謝るという心ない態度を見て以来、「こいつと心中だけは絶対ご免だ」と思っている。

もうすぐ不信任案の採決がされるが、結果が出てから色々言うのも嫌らしいから今のうちにあげておく。
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by w-edge-t | 2011-06-02 14:08 | 日々の暮らしで考えた

やりたい芝居

「芝居しながら考えた」とは言うものの、今は芝居をやってない。
稽古もしてなければ本番中でもない。
やってない。
つーか、こないだ終わったばっかりである。

今月の前半に本番が終わった。
前回も書いたが「輪廻くん」というお芝居である。
当然、話を考えたのはそれより前であって、今から一年ちょっと前、と言う事になる。
うーん、ずいぶん時間が経っちゃったな。と思う。

例のアレが間に挟まってるから、時間以上に意識の変化があると思う。
例のアレってつまり、大震災である。

芝居の特徴はライブだって事だろう。
はるか昔まで遡れば全ての物語表現の基本形が芝居だったりしたのだろうけど、今やその特徴を小説に取られ、漫画に取られ、映画に取られテレビドラマに取られて本家の芝居の方がニッチなジャンルになってしまった。
まあそれはいい、どうせ全部俺が産まれるより前の話だ。俺が知ってる芝居は最初からニッチだった。

ともかく、そんな芝居という今となってはニッチなジャンルを選んだからには、他にはない、芝居の特徴を活かさなかったら意味がないだろう、と思う。
できるだけ、芝居ならではのものを作りたいと思う。
そう考えた時、まず最初にくる芝居ならではの特徴こそ、ライブってことだろうと思うのである。

生で観せる物語。

それが俺にとっての芝居である。
その時、その瞬間の気分を反映したものでなくちゃ意味がない。大げさに言えば、「その時代の空気を色濃く映し出す物語」でなくては意味がない。
そうじゃなきゃ、イマドキ芝居である意味がない!と思って取り組んでいたりはする。

そして、1年間のロングランという、それはそれなり意味のある企画をやらせて頂いているうちに、決定的に時代が変わる瞬間が訪れた。

これはもう、一刻も早く、新しい物語を書かねばならない。
少なくとも俺なりに、今の時代を映すと思う物語を、出していかねばならない、と思う。

さて、時代の空気はどっちに流れているか……?それを掴んで、応える芝居、それが俺のやりたい芝居なのだ、が……

やってみないとわかんねーんだよなーこれがー
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by w-edge-t | 2011-05-31 00:13 | 日々の暮らしで考えた

長門裕之さんの死に想う

5月21日、俳優の長門裕之さんが亡くなられた。

先日まで、僕らはあるお芝居をやっていた。
「輪廻くん」と言うタイトルで、ちょっと変則的な公演だった。
同じ台本で月1回、役者を変えながら1年間続けるという形態だったのだ。
始まったのが2010年4月で、最後が今年の5月15日。
やってる間に面白がってくれる人ができて、その縁で今度は9月に再演する事になったりして、俺の中でもかなり大事な作品の一本である。

その、物語の発想の元になったのが、他ならぬ長門裕之さんであった。
2年前、ちょうど「毎月1回1年のロングラン公演をやってみないか」と声をかけられ、1年やるとしたらどんなテーマがいいだろうと考えていたときの事だった。
当時、長門さんの書かれた「待ってくれ、洋子」が話題になっていたので、読んでみたのだ。そこには長門さん夫妻の老老介護の赤裸々な実態が書かれていた。

正直、本の全てに賛成できるかと問われれば難しい。話はそう簡単ではない。根本的な問題として、認知症を患い本人承諾の取れなくなった妻(それも女優だ)を、勝手に人前に晒して商売のタネにする行為自体が、簡単によしとできる事ではなかろうと思う。
じゃあ全てを汚い売名行為と切って捨ててよいかと言えばそれもまた違うとも思う。夫婦と言う関係は他人が簡単に断罪出来るほど単純じゃない。

当時、自著についての取材の流れでTVに映った長門さんは、「今の俺たちはただその時を待っているんだ」と言っていた。
「その時」とはつまり、南田洋子さんが天に召される時の事だ。
決して「その時」が来て欲しい訳ではない。だが一方で、ずっと来ないとしたら、それもまた地獄である。だから「その時」を待っている。待っているけれども今日であって欲しくはない。まだ自分には彼女の世話をする余力がある。あと一日、後だったらいいな。あと一日、あと一日……。
そうやって日々を過ごしているのだ、と。
記憶を頼りに書いているので言葉遣いは違うだろうけれど、おおよそそのような意味の事を仰っていた。

老老介護について、いやもっと遡ってそもそも夫婦と言うもののあり方について、いやさらにさらに遡るならそもそも人の生命についての、とても複雑な、一筋縄でいかない境地の表明であったと思う。
生きる事、長生きする事が素晴らしいなんて思えない程、辛く苦しい事柄と対面しつつ、それでもあなたのために、今日一日は頑張れた。また明日も頑張ろう。そんな決意表明。それは俺自身の祖父祖母の思い出とも繋がって深く心を揺さぶり、その感慨を起点にして「輪廻くん」という芝居が産まれたのであった。

そして今、節目の時に、今度はその長門さん本人が永眠された。
無論、縁もゆかりもない俺と言う人間が、ただ一方的にイメージを広げて芝居を作ったというだけの事柄であって、タイミングが符合したから何だという話ではない。
ただきっかけを与えてくれた事に感謝するばかりである。

ご冥福をお祈り致します。
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by w-edge-t | 2011-05-22 22:09 | 日々の暮らしで考えた


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高山なおき プロフィール

ダブルエッジ 作家
1969年7月6日生まれ

主な作品
○映画
「娘道成寺~蛇炎の恋~」(高山由紀子と共同)

○演劇
「ダブルエッジの忠臣蔵!」
「輪廻くん」
「天気待ち~waiting for the sun~」(奈良橋陽子と共同)  他

○ラジオドラマシナリオ
NHK-FM「魔法の王国売ります!」他

○テレビドラマシナリオ
NHK「ゴーストフレンズ」 他

○ゲームシナリオ
東芝EMI「ずっといっしょ」

○小説
ZEST「ずっといっしょ~秘密の星空~」

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